アナログなシンプルライフ

シンプルライフ」に、あこがれます。でも現実の世の中はフクザツですね。自分だけシンプルライフを実践しても、生きていくのが難しそうです。

学生の頃は、時間があって、欲しいものがたくさんあって、でもお金がありません。これはある意味でシンプルな生活−シンプルライフです。でも欲求不満です。

その状況を引きずったまま勤め人になり、給料をもらうと、まずは手の届くたくさんのものたちをどんどん買いまくる、ということになります。なにを隠そうこの私がそうでした。

シンプルライフからはほど遠く、あれもこれも、となります。身の回りには「がらくた」がどんどん増えます。でももう勤めていますから、それらのがらくたを使って遊ぶ時間はもうないわけです。

買ったものをむりやり活用しようとすると、きわめて複雑な時間管理が必要になります。体力ももちません。

結局ある時点で、ただやみくもにものを買っても満たされないのだ、ということに気づきます。

身の回りをシンプルに整理して、自分の使える時間のなかで本当に活用して楽しむことができるものだけを、よ〜く選んで所有し、「がんばって」最大限活用しなければ「楽しく」ないのです。

ものの少ないシンプルライフは、意外と覚悟がいるようですね。

シンプルライフは、実はたいへん贅沢なものだと思います。

忙しい現代の生活で最大の贅沢は、「ゆっくりとした時間を過ごす」ことでしょう。

少なくとも今までは、機械をつかった大量生産でどんどんものがつくられ、より速く、より手軽に結果の得られるものがもてはやされ、「素早くて手軽」であることが前提となって社会が回るスピードが決まっていきます。

どんどん買ってちょっと使ってどんどん捨てて、また次のものをどんどん買うのです。

このような状況の中で「いや私はシンプルライフで本当に満足の得られる生活を送るのだ」と立ち止まり、100 円ショップで一瞬で手に入る物でも、わざわざ何日もかけて手作りする。他の人たちはさっさとすませて先に進んでいるのに、自分だけ立ち止まって流れを止める。

これが許されるのは、いろいろな意味で裕福な、自分の裁量で自分の行動を決めることのできる人ではないでしょうか。

「ゆっくりとした時間を過ごす」シンプルライフを阻止する最大の障害は、それが「社会から要求されるテンポと合わない」ことであるように思います。合わなくてもいいや、という決断が、とても贅沢なことなのです。

シンプルライフという言葉が市民権を得て、また地球環境問題なども取りざたされるようになってから、生活のいろいろな側面で「大量生産大量購入大量消費大量廃棄」というライフスタイルが疑問視され、シンプルライフに回帰しようと考えられるようになりました。

しかしまだ、旧態依然とした「どんどん進めー!」的状況が圧倒的に幅をきかせている領域があります。それは、デジタルなコンピュータの世界です。

パソコンやインターネットなどの情報分野は、ドッグイヤーなどといわれるほど時間の進むスピードが速く、半年前の機種はもう老人扱いです。まだまだ、どんどん新機種を出してどんどん買ってどんどん捨てる、という世界です。

ひところに比べると少しスピードが鈍ったような気もしますが、まだまだ異常な世界だと私は思います。こんなに速く進歩して、いったいどこに行こうというのでしょうか。

手軽に大量の情報を手に入れることが良いことだ、みたいな風潮は、「がらくた」を買いまくって満足しようとしているかつての私のように思えてなりません。結局、満足できないのに…

よい「もの」、とくによい「道具」は、得てしてシンプルなものです。道具自体は自分ではほとんど何もしません。しかし、使う人間の能力が上がっていくに従って、どんどん世界を広げてくれます。道具が、人間の進歩を増幅してくれるのです。

コンピュータに代表される現代の道具たちは、どうもそれとは逆の方向に進んでいるように思えます。「自動なんとか機能」がたくさん搭載され、人間はボタンを押すだけ。失敗はしないが、誰がやっても同じ。

これでは、人間は進歩する意欲を失います。でもそういうお手軽ツールが売れるのですよね。

お手軽ツールがすべて悪い、とは、もちろん言いません。現代のシンプルライフは、すべてを昔のシンプルさに戻す、ということではなく、それぞれの人の価値観によって、ものごとを取捨選択することだと思います。

その人が大きな価値を見いだすことがらについては、ただボタンを押すだけではなく、アナログな手作りで贅沢に時間をかけてたっぷりと楽しむ。一方、それ以外のことがらは、現代のデジタルツールを最大限駆使して、ボタン一つでそつなく素早くこなす。

それによって時間を作り出して、価値を認めることがらに投入するわけです。これが現代のシンプルライフだと私は思います。